中国茶の世界

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■高級工藝師

 
 
  駐北京のとある日本マスコミ関係者から「紫砂壷は北京にあり」という過激的な発言を聞いて、北京へ行って確かめずにいられない。紫砂壺販売店として、また紫砂壺愛好者として。
言葉は本当なら、北京訪問の価値が十二分にあります。
意を決し、北京行きの航空券を予約しました。
北京郊外にある周桂珍大師の工房を訪ねて、久々の感動を覚えました!その感動を皆様にもお分けしたいと思います。

市内からタクシーで3、40分ほどかかった所に周桂珍大師の工房があります。朝10時に着いて、一階にある中国式茶室で高振宇先生が美味しい武夷岩茶を淹れて下さいました。あれ?宜興の人は宜興紅茶かお湯しか飲まない筈なのに、と失礼を承知の上に訳を訪ねて見ました。すると、高振宇先生から「茶陶は茶文化が分かっていなければ成り立ちません。なので私達は積極的にお茶の産地を訪問したり茶人達と交流したりしています......」という回答が返って来ました。そして、茶文化について熱く語って下さいました。
この人は真の作家だ!紫砂壺と関わる全ての文化に積極的に取り組む高振宇先生の姿勢に脱帽。宜興の多くの作家はお茶も飲まずに紫砂壺を制作しています。だから楊勤芳先生の自宅兼工房を見た時に、私達はこの人はただの紫砂壺の作家ではないと感動し、氏の作品の紹介に力を入れて来ました。(もちろん、他の若手も努力していますが)。
この人はそんじょそこらの並みの陶藝家ではありません!その感動を久しぶりに覚え、興奮しました。
   
  作家の楽しみは作品を生み出す事だ、私にとって紫砂壷の制作は苦ではなく、楽しみです。その楽しみを人に譲る事は残念ながら私には出来ません。という高振宇先生の言葉も非常に印象的です。心を込めて作った作品なので、大事に使ってくれていると分かれば、非常に嬉しい事です。物の良さが分かる日本人と物を大事にする日本人に作品を譲る事は、最も嬉しいと日本留学経験者の高振宇先生が語ってくれました。
顧景舟大師は生涯にわたって生み出した作品数が非常に少ないので、自分の作品を子供のように想い、作品を人に譲る事は子供を余所に送り出すように辛い事です。私達(周桂珍大師、高振宇、徐徐の3人)は月に数個のペースで制作していますので、大事に使ってくれると分かれば非常に嬉しい事です。
また、作品の全てが予約制作で、見込み生産で周桂珍大師の作品が市場に出廻ることはまずあり得ないことです。 日本での販売代理店もありません。日本で「高振宇」 の作品を数千円で販売しているネットショップもあるようですが、その価格は日本円ではなく、中国の元でもありえない(つまり×15倍の価格でもあり得ない)との事です!ご注意を。
   
 紫砂壷の制作は苦ではなく、非常に楽しい作業だと言う高振宇先生は、工房内にある窯を案内して下さいました。高振宇先生は日本留学を終え(1993年5月)、中国に戻って直ぐに業者を呼んで、中国で初めての個人工房用ガス窯を作らせました。工房の中にガス窯の他に電気窯があって、少し離れた所に登り窯まで所有する拘りぶりです。
 土と火の芸術と言われる陶芸の大事な焼成部分を他人の手に任せるなんて私にはできません。と高振宇先生は初期費用と維持費よりも仕上げの事を大事に考え、中国で初めての個人工房用ガス窯を作らせました。
   
 都市の喧騒から離れた北京郊外に住み、500年以上ある伝統のタタラ作りをしっかり守って、おいしいお茶の入る紫砂壷の制作に励むと同時に、茶壺のバックグラウンドにある文化面の理解に力を入れています。高振宇先生と奥さんの徐徐さんは色々なお茶の産地を訪ね、交流をしたりしています。
   
 一日ほどお話しをいろいろ聞いて、工房を見学し、多くの作品をみて、顧景舟大師のあとを引き継いで紫砂文化を背負って行くのはこの先生じゃないかと思ったりします。どん底にまで落ちたと言われる紫砂壷の世界に、このような作家に出会える事は、紫砂壷コレクターとして、非常に嬉しく思います。
   
ちゃんと伝統技法で作ることの大切さを熱心に語って下さる高振宇先生
   
1964年 江蘇省宜興に生まれ
1982年 宜興紫砂工藝厰研究所に入り、顧景舟に師事
1989年 南京芸術学院卒業
1990年 日本留学。加藤達美、高橋弘に師事
1992年 日本で個展
1993年 武蔵野美術大学卒業
1993年 5月に帰国。中国芸術研究院の研究員となる
1998年 東京三越にて個展
2000年 日本NHK番組「悠久の中国 やきもの紀行」で美を極める現代新鋭陶工として紹介された


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