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■宋朝 「興於唐、盛於唐」という唱えに対抗するように中国茶は「興於唐朝、盛在宋代」という説もよく聞きます。貢茶は唐代から始まったものですが、宋代にそれを多様化して行きました。新しい「龍鳳団茶」(月+昔)面茶が次々と発表され、形ばかり追求された時期もあり、綺麗だけど味がいまいちという批判もあったようです。
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| ■元・明朝 元は過度期で、百年未満の歴史の間、お茶に関する本が一冊も残っていませんでした。元の時代に「団茶」と「餅茶」は宮廷へ献上するか上流階級者の為にあり、民間では散茶、末茶が主でした。この時代で「茶馬司」が廃止された理由は、モンゴル帝国による中国の支配でした。彼らにとって、馬の調達は朝飯前以上に簡単な事です。 明という時代、明太祖朱元璋が「過酷」という理由で洪武二十四年に「団茶廃止令」を出し、散茶(芽茶)がすっかり主流の座に昇り、「沖泡」という言葉が使われ、お茶の楽しみ方が更に簡単、簡略化されました。この時代で最も重要とされた出来事は「小茶壷」の誕生(紫砂と磁器)だそうです。中国で初めての紫砂壷に関する専門書である「陽羨茗壷系」が周高起という人によって書き残されました。この時代の紫砂壷名人は時大彬、徐友泉、李仲芳、陳仲美、陳用卿、陳子畦などが挙げられます。 中国茶は明代に入ってから、その製造方法から飲用方法まで、全てが変革されました。煩雑極まる宋と以前の製茶と飲用法に対する反動から、明のお茶は簡単明瞭で実用的でした。現代にまで至る中国茶の性格はこの時代とのちの清代に完成されたと言われています。 しかし、団茶廃止令を出されたオモテの理由は「民力を疲弊させている」でしたが、実情は別にあったとも言われています。明太祖朱元璋は安徽省出身で、しかも貧農だったので、固形茶を飲み慣れていなかっただけという説でした。美味しくない固形茶(外形重視の龍鳳茶は、茶の真味を失っているとも言われ)を存在させる理由などない、いかにも朱元璋らしい実用主義が窺えます。 確かに固形茶は葉茶より手間はかかりますが、労力と財力を要する点では、散茶も固形茶も同じなので、本当に愛民の心があれば、貢茶(献上茶)を止めさせれば良いのでしたが、朱元璋は団茶廃止令後にも貢茶を継続させていました。しかも、その量がエスカレートして行きました。 茶馬貿易:元という時代で廃止された茶馬貿易が、明代には再び盛んとなり、現在の四川・貴川・雲南・甘粛・青海で行われました。特に甘粛・青海両省に設置された「茶馬司」での交易量が多く、四川・漢中の茶との交易により多くの馬が明朝にもたらされました。相場は1頭の馬に対して40斤の茶葉で、最高の馬でも120斤の茶葉でした。 お茶の製法:「団茶廃止令」の後、散茶(芽茶)が主流の座に昇り、製法も今までの蒸青から炒青へと換わり始めました。「善蒸不如善炒」という言葉があるように、炒青製法は香りがもっと良いと、明中以降、蒸青にとってかわり、炒青が主流になりました。「茶疏」という本の中で「炒茶、生茶初摘、香気未透、必借火力、以発其香。然性不耐労、炒不宜久......」と炒青製法が書かれてあります。 お茶の本:明の時代のお茶に関する本は朱元璋の第十七番目の息子である「朱権」 の「茶譜」では蒸青散葉茶の楽しみ法、お茶の保管、品水などについて述べられた。他に「茶疏」、「茶寮記」、「茶解」、「水品」、「煎茶七類」、「茶経外集」、「茶譜外集」、「茶説」、「茶考」、「茶話」、「茶録」、「茶書全集」......などがあります。 茶器の変化:紫砂と磁器の小壷誕生。張謙徳の著書「茶経」では「茶性狭、壷過大則香不聚、容一二升足矣」。また「長物志」では「壷以砂者為上、蓋既不奪香、又無熟湯気」。茶碗は黒釉碗(宋の斗茶では黒釉碗が主流)から白磁と青花磁へ変化。宋では流行っていた斗茶が段々衰弱して行きました。
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| ■清朝 清代に入ってからの中国茶は、殆ど明代の喫茶をそのまま受け継ぎ、発展させた物でした。この時代、貢茶の産地が更に広がり、皇帝が自ら貢茶を指名する記録も残っています。西湖龍井村の18本の「御茶」は清高宗乾隆帝から貰った名前で、この時代のお茶好きな皇帝として有名な乾隆皇帝も数々のお茶に関する詩や逸話を残しくれました。 清の咸豊三年に「茶葉通関税」が導入され、水路と陸路に設けた税関に国の規定した税金を払えば、茶商達は自由にお茶の取引が出来るようになりました。これによって、長い間国によって統制されて来たお茶の貿易と経営は、再び民間の手に委ねられるようになりました。この「茶葉通関税」の導入と海外貿易の奨励により、伝統的な陸路に加え、水路を使った茶貿易が始まり、中国茶の輸出先はポルトガル、オランダ、イギリスなどの国でした。 17世紀の半ば頃から、ヨーロッパでは、まず上流社会から中国茶(緑茶と後ほどの紅茶)を飲むようになり、18世紀には、イギリスを中心に喫茶が大流行になりました。お茶の需要量の増大に伴って、イギリスから中国に大量の銀が流出し、逆にイギリスから清へ輸出は、時計や望遠鏡のような一部の富裕層にしか需要されないようなものが中心で、大量に輸出できるようなものはこれと言って無く、イギリスの大幅な輸入超過になりました。 そのためイギリスは清へ輸出品として、植民地のインドで栽培させたアヘンを仕入れ、これを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることにしました。イギリスが大量のアヘンを中国に持ち込むと、アヘン吸飲の風習は、上は高級官僚から下は一兵卒や全国民に至るまで社会の各層に広がってしまいました。それにより、アヘンの輸入量が飛躍的に増え、やがてその支払いにはお茶や絹製品の輸出だけでは追いつかない状況になり、今度は大量の銀を中国からイギリスへと逆転してしまいました。道光帝は林則徐を欽差大臣(特命大臣)に任命し、アヘン密輸の取り締まりに当たらせました。これにより後の鴉片戦争が起きたのでした。中国茶とアヘン戦争が関係してる事を知っている人は意外と少なかったようです。 お茶の愉しみ方:お茶の種類が増え、そして、福建省や広東省では烏龍茶の「功夫(工夫)茶」が流行り、「小壷泡烏龍」という言葉からでも分かるように、お茶だけではなく、茶器に対しても大変な拘りを見せています。この時代の紫砂壷名師は陳鳴遠、恵逸公、楊彭年、楊鳳年、邵大亨、邵友蘭、蒋徳林、黄玉麟などが挙げられます。 お茶の本:茶馬政要、茶書、茶史、續茶経、枕山樓茶略などがあります。紫砂壷に関する専門書は「陽羨名陶録」がありました。 ・
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