中国茶の世界
ホーム → ■茶文化録(中国茶の歴史、伝説、歴代書籍など) → ■茶の歴史
ライン



■宋朝 「興於唐、盛於唐」という唱えに対抗するように中国茶は「興於唐朝、盛在宋代」(茶は唐に興り、宋に盛んになる)という説もよく聞きます。貢茶は唐代から始まったものですが、宋代にそれを多様化して行きました。新しい「龍鳳団茶」(月+昔)面茶が次々と発表され、形ばかり追求された時期もあり、綺麗だけど味がいまいちという批判もあったようです。

 飲み方:宋は隋唐の時代にあった「煮茶や煎茶」を伝承した上、新しい「点茶」も生まれ、宋という時代、点茶、分茶と斗(闘)茶に関する記録がたくさんあり、皇帝の宋徽宗(趙佶)も点茶と分茶が得意で、自ら「大観茶論」という茶本を残したほどのお茶好き。一国の主がお茶に熱中すると、周りの人々も巻き込まれるのは簡単な事です。茶の盛在宋代論は宋徽宗(趙佶)も貢献したと言えましょう。
 このまた、宋では、これまで団茶が主流だったお茶が庶民でも楽しめる散茶が多く、緊圧茶類は「片茶(または団茶)」と呼び、そうでない物は「草茶」や「散茶」と2タイプに別れました。「宋史・食貨志」の中で「茶有両類、曰方茶、日散茶。」とはっきり記されてあります。

 宋では殆どの茶園は官営化されていました。固形茶の生産は湖南省、湖北省、安徽省、河南省、江西省、江蘇省、浙江省と福建省にわたり、散茶は湖南省、湖北省、安徽省、江蘇省と浙江省の一部で作られていました。中でも福建省の建安は一躍最大の茶産地になりました。「貢茶」の生産で有名な「北苑茶園」は宋代のみならず、史上最高レベルと言われる固形茶の生産技術は宋の後もその記録を破られませんでした。

 宋代の斗茶:唐からあったと言われる「斗茶(闘茶)」が宋で非常に盛んに行われ、宋代の大文豪である范仲淹の詩では「勝者登仙不可攀、輸同降将無窮恥」(勝てば、仙人になったように偉くなり、近よりがたい。負ければ、投降した将のようにその恥は窮まりない。)からでもこの古くからあった習俗のすごさが伝わって来ます。鐡観音の故郷:安渓でも唐からあったと言われる「茗戦」に関する史料があり、それは宋では更に白熱化し、新茶の季節に必ず「斗茶」が行われ、「湯色」、「湯花」に関する勝負の記録があり、勝負を分ける用語は「相差幾水」という言葉が使われたそうです。唐では越窯の青磁が人気に対し、宋の斗茶では建窯の黒釉碗を用います。「雪白湯花」と黒釉碗の方が合うし、兎毫天目釉茶碗という素晴らしい芸術品と、口が大きく底が小さいという形が使い易い......などの理由がありました。

 斗茶(闘茶)の他に、分茶という遊びも流行っていました。抹茶にお湯を注ぎ、茶筅で泡を立て(碾茶為末、注之以湯、以茶撃拂と記載)、花や動物などを図案を作り出す遊びです。例えは乱暴ですが、現代のデザインカプチーノやラテアートを思えばわかりやすいかも。詩人楊万里は分茶について「分茶何似煎茶好、煎茶不似分茶巧」(分茶は、煎茶のおいしさには及ばないが、煎茶は、分茶の見事さに及ばない)と書いてあります。茶百戯とも呼ばれています。

 茶馬貿易:外民族との交易により軍馬を取得する方法は唐ののころから行われていたが、大規模に始めたのは宋代になってからのようです。北宋では、現在の陝西・甘粛・寧夏・四川などの地に多くの買馬場が開かれ、これを専門的に管理する「茶馬司」が設置されていました。
 宋代のお茶と馬の交換率は、元豐間、100斤のお茶で馬一頭と交換出来たそうです。その後、馬は良馬と綱馬などの9等類に細かく分けられ、良い馬はお茶250斤、一番したの馬は132斤となったようです。宋は交換して来た良い馬は戦場へ、普通の馬は西南の少数民族へ分け、政府への忠誠と交換したようなモノでした。

 貴重な馬を出してもお茶を手に入れたい辺彊の少数民族は、肉食中心な生活で、お茶は彼らの生活に非常に合い、また重要な位置を示したようです。「寧可三日無油塩、不願一日不喝茶」や「一日無茶則滞、三日無茶則病」という言葉からも分かるように、彼らにとってもお茶がなくてはならない存在となっています。

 茶税:古くから行われてきた塩、鐡に続き、お茶の専売史がこの時代に正式に幕を切って落とされました。当時、お茶は既に日常生活の一部となっており、その取引と貿易によって莫大な利益が生まれています。茶税は国家財政を支える大きな柱の一つとなっていました。

 お茶の本:宋のお茶に関する本も非常に多く生まれました。 蔡襄の「茶録」ではお茶の色、香り、味、碾き、保存方法、煎れ方などについて論じられ、黄儒の「品茶要録」は茶葉の質とその優劣を分けた原因について述べ、そしてなんと皇帝の宋徽宗が自ら「大観茶論」という本を書き上げ、茶樹の植えから採茶の時期、方法、製造について、鑑別 について多方面に網羅されました。他に「東渓試茶録」、「宣和北苑貢茶録」や「北苑別 録」など25種類と記録されています。
 

闘茶




■元・明朝 元は過度期で、百年未満の歴史の間、お茶に関する本が一冊も残っていませんでした。元の時代に「団茶」と「餅茶」は宮廷へ献上するか上流階級者の為にあり、民間では散茶、末茶が主でした。この時代で「茶馬司」が廃止された理由は、モンゴル帝国による中国の支配でした。彼らにとって、馬の調達は朝飯前以上に簡単な事です。

 明という時代、明太祖朱元璋が「過酷」という理由で洪武二十四年に「団茶廃止令」を出し、散茶(芽茶)がすっかり主流の座に昇り、「沖泡」という言葉が使われ、お茶の楽しみ方が更に簡単、簡略化されました。

 しかし、団茶廃止令を出されたオモテの理由は「民力を疲弊させている」でしたが、実情は別にあったとも言われています。明太祖朱元璋は安徽省出身で、しかも貧農だったので、固形茶を飲み慣れていなかっただけという説でした。美味しくない固形茶(外形重視の龍鳳茶は、茶の真味を失っているとも言われ)を存在させる理由などない、いかにも朱元璋らしい実用主義が窺えます。

 確かに固形茶は葉茶より手間はかかりますが、労力と財力を要する点では、散茶も固形茶も同じなので、本当に愛民の心があれば、貢茶(献上茶)を止めさせれば良いのでしたが、朱元璋は団茶廃止令後にも貢茶を継続させていました。しかも、その量がエスカレートして行きました。献上茶に苦しむ為、武夷山の茶農が逃げ、250年以上を続いた御茶園が明嘉靖三十六年(1557年)に消えました。

 飲み方:中国茶は明代に入ってから、その製造方法から飲用方法まで、全てが変革されました。煩雑極まる宋と以前の製茶と飲用法に対する反動から、明のお茶は簡単明瞭で実用的でした。現代にまで至る中国茶の性格はこの時代とのちの清代に完成されたと言われています。
 この時代で最も重要だとされた出来事は「小茶壷」の誕生(紫砂と磁器)です。また、中国で初めての紫砂壷に関する専門書である「陽羨茗壷系」が周高起という人によって書き残されました。この時代の紫砂壷名人は時大彬、徐友泉、李仲芳、陳仲美、陳用卿、陳子畦などが挙げられます。
 明の「馮可賓」氏は著書「芥茶牋」の中で「壺小則香不渙散、味不耽閣」(茶壺が小さいと、お茶の香りは散らないし、味も逃げない)と述べてあります。

 茶馬貿易:元という時代で廃止された茶馬貿易が、明代には再び盛んとなり、現在の四川・貴川・雲南・甘粛・青海で行われました。特に甘粛・青海両省に設置された「茶馬司」での交易量が多く、四川・漢中の茶との交易により多くの馬が明朝にもたらされました。相場は1頭の馬に対して40斤の茶葉で、最高の馬でも120斤の茶葉でした。

 「明史」では「...番人持茶為生、故以厳法持禁之、易馬之酬之、製番人之死命、壮中国之藩離、断匈奴之左臂...」(遊牧民の生活には、我が国の茶が欠かせない。茶がなければ死を待つばかりである。故に茶の密輸と密売を禁止し、馬との交換でその労に酬いることにしている。これでもって、遊牧民を牽制し、中国の藩離を高め、匈奴の片腕を断つことが出来る)と書いてあります。密輸や密売はもちろん禁止ですが、お茶で一儲けしようという輩が続出した為、見つかったら極刑と厳しく取り締まりました。それでも、全く気にせずに密輸していた人がいました。皇帝朱元璋の婿である欧陽倫(朱元璋の娘である安慶公主と結婚)が自分が法律に縛られないと思い、地方の役人まで使い、その上、茶農を搾取していましたので、とうとう告訴状が朝廷に届き、それを知った朱元璋が1397年06月に、欧陽倫と関わった人達を死刑に処しました。お茶の密輸で殺されたのは恐らくこの欧陽倫が一番最初です。

 お茶の製法:「団茶廃止令」の後、散茶(芽茶)が主流の座に昇り、製法も今までの蒸青から炒青へと換わり始めました。「善蒸不如善炒」という言葉があるように、炒青製法は香りがもっと良いと、明中以降、蒸青にとってかわり、炒青が主流になりました。「茶疏」という本の中で「炒茶、生茶初摘、香気未透、必借火力、以発其香。然性不耐労、炒不宜久......」と炒青製法が書かれてあります。

 お茶の本:明の時代のお茶に関する本は朱元璋の第十七番目の息子である「朱権」 の「茶譜」では蒸青散葉茶の楽しみ法、お茶の保管、品水などについて述べられた。他に「茶疏」、「茶寮記」、「茶解」、「水品」、「煎茶七類」、「茶経外集」、「茶譜外集」、「茶説」、「茶考」、「茶話」、「茶録」、「茶書全集」......などがあります。

 茶器の変化:紫砂と磁器の小壷誕生。張謙徳の著書「茶経」では「茶性狭、壷過大則香不聚、容一二升足矣」。また「長物志」では「壷以砂者為上、蓋既不奪香、又無熟湯気」。茶碗は黒釉碗(宋の斗茶では黒釉碗が主流)から白磁と青花磁へ変化。宋では流行っていた斗茶が段々衰弱して行きました。

僧帽壷
明代の巨匠:時大彬の僧帽壷




■清朝  清代に入ってからの中国茶は、殆ど明代の喫茶をそのまま受け継ぎ、発展させた物でした。この時代、貢茶の産地が更に広がり、皇帝が自ら貢茶を指名する記録も残っています。西湖龍井村の18本の「御茶」は清高宗乾隆帝から貰った名前で、この時代のお茶好きな皇帝として有名な乾隆皇帝も数々のお茶に関する詩や逸話を残しくれました。

 清の咸豊三年に「茶葉通関税」が導入され、水路と陸路に設けた税関に国の規定した税金を払えば、茶商達は自由にお茶の取引が出来るようになりました。これによって、長い間国によって統制されて来たお茶の貿易と経営は、再び民間の手に委ねられるようになりました。この「茶葉通関税」の導入と海外貿易の奨励により、伝統的な陸路に加え、水路を使った茶貿易が始まり、中国茶の輸出先はポルトガル、オランダ、イギリスなどの国でした。

 17世紀の半ば頃から、ヨーロッパでは、まず上流社会から中国茶(緑茶と後ほどの紅茶)を飲むようになり、18世紀には、イギリスを中心に喫茶が大流行になりました。お茶の需要量の増大に伴って、イギリスから中国に大量の銀が流出し、逆にイギリスから清へ輸出は、時計や望遠鏡のような一部の富裕層にしか需要されないようなものが中心で、大量に輸出できるようなものはこれと言って無く、イギリスの大幅な輸入超過になりました。
 そのためイギリスは清へ輸出品として、植民地のインドで栽培させたアヘンを仕入れ、これを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることにしました。イギリスが大量のアヘンを中国に持ち込むと、アヘン吸飲の風習は、上は高級官僚から下は一兵卒や全国民に至るまで社会の各層に広がってしまいました。それにより、アヘンの輸入量が飛躍的に増え、やがてその支払いにはお茶や絹製品の輸出だけでは追いつかない状況になり、今度は大量の銀を中国からイギリスへと逆転してしまいました。道光帝は林則徐を欽差大臣(特命大臣)に任命し、アヘン密輸の取り締まりに当たらせました。これにより後の鴉片戦争が起きたのでした。中国茶とアヘン戦争が関係してる事を知っている人は意外と少なかったようです。


 お茶の愉しみ方:お茶の種類が増え、そして、福建省や広東省では烏龍茶の「功夫(工夫)茶」が流行り、「小壷泡烏龍」という言葉からでも分かるように、お茶だけではなく、茶器に対しても大変な拘りを見せています。この時代の詩人である「袁枚」が著作「随園食単」の中で「杯小如胡桃,壺小如香椽...」と功夫茶について詳しくかいてあります。
 この時代の紫砂壷名師は陳鳴遠、恵逸公、楊彭年、楊鳳年、邵大亨、邵友蘭、蒋徳林、黄玉麟などが挙げられます。

 お茶の本:茶馬政要、茶書、茶史、續茶経、枕山樓茶略などがあります。紫砂壷に関する専門書は「陽羨名陶録」がありました。

石瓢壷鳴遠壷書扁壷duo球壷


前のページ


ライン
Copyright (C) 1998〜2016 中国茶の世界(真如禅意精品流通)