■隋・唐 隋が短かった(約40年)為、中国茶に関する記載は殆どありません。しかし、唐、特に中期の唐において中国茶が飛躍的な発展を遂げたと言えましょう。お茶は「興於唐、盛於唐」という説です。「茶始有字、茶始作書、茶始辺銷、茶始収税」という記載が分かりやすくまとめています。
茶の種類:唐の時代のお茶は「餅茶」中心で、散茶も少ないながら記載に見る事ができました。陸羽の著書「茶経」の「六之飲」の中で「飲有(牛+角)茶、散茶、末茶、餅茶者」という記載があり、唐の時代に粗茶、散茶、抹茶と餅茶の4種類がありました。
また、この時代の「蠻書」の中で「茶生銀生城界諸山、散収無采造法.....」、更に清の「普耳茶記」の中で「西蕃之用普茶、己自唐時」とも書かれてありますので、唐という時代に既に雲南茶が登場したようです。
製法:お茶の製法は「蒸青」がメインですが、この時代の詩人&政治家である「劉禹錫」という人は「西山蘭若試茶歌」の中で「斯須炒成満室香」という詩から見て分かるように、茶葉を炒めた製法(炒青法)はメインではありませんが存在していました。
*ちなみに、明という時代に入ると炒青法が急速に発展し、明とそれ以降の緑茶は殆ど炒青法で製茶されるようになりました。
煎れ方:お茶の神様である陸羽もこの時代の人間で、「煎茶法」が陸羽によって考案された新しい楽しみ方です。陸羽以前の煎茶法は餅茶を朱色になるまで炙り、それから砕き、釜に入れ水を出し、そして姜、葱や柑などを加える飲み方でした。
陸羽はこの飲み方はお茶の本来の味が分からず、排水溝の廃水と変わらないと、激しく批判しました。対して、陸羽が考え出された「煎茶法」は水が沸いた時に少しの塩を加えるか、全く入れないかのシンプルな煎れ方です。
陸羽の煎茶は水を沸かしてから粉末を投入し、かき混ぜながら3度目の沸騰時に止めましたが、煮茶は沸騰湯に入れたり、冷水状態時に入れて一緒に煮るの2つの方法でした。
茶具:茶具も煎茶は風炉、碾、羅、瓢、碗など24件あり、使う水に対しても「山水上、江水中、井水下」といって、大変な拘りを見せています。お茶が広まると共に、様々な茶器も生まれました。
貢茶(献上茶):そして、そして最も注目すべき 所は「貢茶」という言葉です。最も、「貢茶」は唐の時代以前に既にありました。隋の文帝が病気時に、浙江天台山の智蔵お坊さんが天台茶を献上した記録がありました。ただ、皇帝に献上する為のお茶を造る「貢茶院」
(浙江省長興の顧渚山に)ができたのは唐という時代でした。しかもその量も半端の物ではありません。最も多い記録は三十万斤という記録があり、なんとその時代の貢茶リストの中に「霍山黄芽」と「常州陽羨」がありました。
陸羽の推薦で浙江省長興の「顧渚紫笋茶」と江蘇省宜興の「陽羨雪芽茶」が有名な貢茶となっていました。この時代の詩人盧仝の「走筆謝孟諫議寄新茶」の中に「陽羨茶」が登場しています。
お茶が唐という時代から勃興した理由は、強い唐の経済と文化の影響と、陸羽の努力、そして仏教道教の関わりだと言われています。北宋の文人である梅尭臣が「自従陸羽生人間、人間相学事春茶」と、陸羽のお茶に対する貢献を高く評価していました。 |
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茶税:唐の建中三年(公元782年)から茶税の徴収が始まったという記載がありました。安史の乱(755年から763年にかけて、唐の節度使である安禄山とその部下の史思明などによって引き起こされた大規模な反乱)で空になった国庫を満たす為の措置で、10パーセントの茶税を茶商達にかけられたとか。 |
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お茶の神様: 陸羽像(陸羽に関する資料は こちらへどうぞ)
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