陸羽・LuYu:(733〜804)字鴻漸、競陵(今の湖北天門)人。著名茶學家。茶神、茶聖、茶王、茶仙、茶祖と色々呼ばれます。茶學家以外に、陸羽はまた詩人、書道家、史学家、地学家と文学家でもあります。お茶のバイブルである「茶経」の事があまりにも有名すぎるので、お茶以外の陸羽は意外と知られていません。
陸羽には非常に不幸な少年時代があり、3歳の時に捨てられた事から始まりました。何故捨てられたのか、親は誰なのかは残念ながら永遠の謎です。3歳に捨てられたと書きましたが、別
に「この子は3歳」というメモ書きがあったわけではありません。あくまで推測年齢です。捨てられた陸羽を拾ったのは競陵龍盖寺の「智積」という僧侶です。智積褝師は拾った陸羽を弟子にし、将来の後継ぎにしようと考えたようです。捨て子なので当然名前がありません。「陸羽」と名付けたのも智積褝師です。
少し話が逸れますが、お茶は古くから仏教と深い関係があり、あまり知られていませんが、智積褝師もお茶の事が非常に詳しく、普段、陸羽の点てたお茶しか飲まないという拘りぶり。陸羽は寺院の中で育った事は、彼とお茶の出会いのキッカケでもありました。当時、「茶会」という言葉が既に誕生し、陸羽が毎回、寺が主宰のお茶会の段取りの良さとお茶点てのウマさで褒められ、小さい時から師匠のお茶淹れに任されていました。彼が寺院を逃げ出した年から智積褝師もお茶をやめたとさえ言われました。
唐代宗時、智積褝師が宮廷に呼ばれ、皇帝が宮廷内で一番お茶に詳しい人にお茶を点てさせ、智積褝師に出しましたが、智積褝師が一口を飲んで止めました。智積褝師が「おいしくない」とは言いませんでしたが、皇帝がそれを見抜き、智積褝師に黙って、陸羽を呼び、裏でお茶を点てさせました。陸羽の点てたお茶を飲んで、智積褝師が「これ、もしかして漸児が点てた物?」と聞き、周囲を驚かせました。漸児は智積褝師が陸羽に対する呼び名です。陸羽の腕は勿論のこと、それをすぐ分かってしまう智積褝師も凄い人物だったという話しです。
話を元に戻します。智積褝師は陸羽を僧侶としか見ていない上、陸羽が並外れの聡明さも加え、智積褝師が一段と彼に学問を仕込もうという気があったようです。しかし、陸羽は佛典しか学べない事に非常に不満を感じ、佛よりも儒を勉強したかったようです。ずっと佛門に居た陸羽が「儒」を知ったのは恐らく寺主宰の「茶会」に参加した文人達の弁論でしょう。幼い陸羽にとって、外から来た文人達は「別
世界の住人」に見えたようで、自伝の中で「不知何許人」と記してあります。
9歳のある日、また佛典の勉強を命じられた陸羽は智積褝師に向かって、「儒家説不孝有三、無後為大。出家人能称有孝麼?」(不孝に3つあり、跡継ぎがないのは一番の不孝だと言われ、出家は親孝行と言えましょうか)と聞いてしまいました。中国の僧侶は日本と違って、一生結婚してはならない決まりがあり、僧侶になると子孫を断つという意味で、陸羽はそれを師匠に向かって、僧侶になることイコール不孝ではないかと問いてしまったのです。
智積褝師は陸羽を説得しようと、仏教と儒家についての大弁論をし、子供の陸羽は大人を仰天させた口舌を発揮し、仏教を力説する智積褝師に全く譲らず、儒道で激しく反論し、とうとう師匠の智積褝師を怒らせました。
それ以来、智積褝師が一段と陸羽を厳しくしつけ、便所掃除させ、寺の壁を洗わせ、重い瓦を運ばせ、牧牛などの重労働をさせましたが、陸羽はめげるところか、ますます勉学に励みました。重労働だけなら多分耐えきることが出来るのでしょうが、寺の先輩僧侶が暴力を加えるようになり、エスカレートに連れ、陸羽は自分の貴重な歳月を寺院で費やされるべきではないと考え、スキを見て寺院を逃げ出しました。天宝四載(745)推測十二歳の時でした。自伝の中で陸羽は智積褝師が自分にした事を「矯憐撫愛」という表現をされ、いわゆる「愛の鞭(ムチ)」だと受け止めていました。逃げ出したのは自分が仏教に興味がなく、儒道への憧れで、智積褝師を非難したりはしていませんでした。
寺院から逃げ出した陸羽は生活の為に、小さな劇団に入団しました。しかし、陸羽の顔があまりよくない上、吃りでしたので、三枚目(中国語では醜角と書きます)の役しかさせてもらえませんでした。それでも陸羽は一生懸命働き、一生懸命演じ、勤勉、ユーモアさとメキメキ才能を現わし、人気者になったと同時に劇団の仲間から篤い信頼を得ることが出来ました。その上、脚本を書き、監督もこなすまで成長しました。
一年後に陸羽にチャンスが訪れ、都から左遷され競陵に来た「李斉物」という地方長官(競陵太守)が陸羽の芝居を偶然見る機会があって、その才能を買い、「この子はキチンとした教育を受ければ、将来はきっと立派な人物になるんだ」と、李斉物氏が陸羽を「火門山」での勉学を薦めました。のちほど陸羽が有名な文人、茶葉専門家になったのは、この李斉物氏の数年間の援助と教育のお陰と言って良いでしょう。
陸羽もいろいろな事情で都から左遷されて来た李斉物氏の辛い気持ちを察し、李氏にお茶を勧めました。左遷だけではなく何時朝廷によって消されるかもしれないという李斉物氏の事を陸羽は見つめて、和らげようとお茶を勧めました。そう、お茶は唐の時代から、既に喉の乾きを癒す為の飲み物ではなく、それ以上の魅力があったのです。お茶は水と違って、非常に金銭の面
も、手間もかけなければなりません。ただ喉が乾けば簡単に入手できる水を飲めば良いのです。
天宝十一年(752)、陸羽は左遷され競陵に来たもと文部省長官の「崔國輔」と知り合い、文人として対等の付き合いをし、文学やお茶の話しで明け暮れた事が日常茶飯事になり、崔國輔とは終身の友となりました。
三年後に安史之乱が起き、陸羽は大量の戦争難民と一緒に南へ逃げ、氏のもう一つの人生の歴史が始まりました。そう、土壌や気候などに恵まれ、銘茶を次々と生み出した中国の「江南」に陸羽が来たのです......
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