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紅 茶(hong-cha)
 
 紅茶、多くの人のイメージでは紅茶=イギリスでないでしょうか 。しかし、ヨーロッパで最初に飲茶の風習を広めたのは17世紀初頭のオランダ人でした。が、その紅茶がオランダで生産された物ではありません。

 紅茶は何時、どのようにして誕生したかについて、「中国からイギリスに緑茶がインド洋を通って船で運ばれていく途中に、赤道を通過してくるため、湿度と温度が高くなり、また長時間も関係し、緑茶が発酵して紅茶になり、そのブラックティーはロンドンで歓迎され、これが紅茶の始まり云々。」という有名な俗説がありますが、これは間違いです!

 それでは、紅茶は何時、誰が、どのようにして誕生させたのでしょうか。歴史が短いのに、曖昧な誕生説が、ここ数年異変が起きています。まず、誕生の場所は船で運ばれていく途中でもなければ、安徽の祁門でもありません。誕生の場所は中国とヨーロッパに共通しているのは「福建省武夷山市桐木」です。

 この桐木は武夷岩茶で有名な武夷山市の中心から車で1時間半ほど山奥にあります。桐木では、古くから緑茶を生産していました。明末清初(164X年頃)、春遅く、大切な収入源のお茶を作るべく、茶葉を納屋に広げていました。そこに、軍隊が通り、納屋に入りこみ、寝泊りし、そして軍隊が去ったあとに残されたお茶は、発酵が進み、すでに緑茶ではなくなりました。 しかし、貧しい桐木の農家は、それを捨てずに、製茶し、雨期でも燃えやすい松の木で乾燥させ、ふもとの星村に来ていた福建省泉州の商人に託したそうです。泉州は当時のヨーロッパとの主要な交易港(宋という時代では中国で最も重要な港の一つ)で、このお茶は、オランダへ輸出されました。翌年、オランダからこの今までになかったタイプのお茶の特注が入り、正山小種が広く作られるようになったそうです。


   
 正山茶業有限公司の江元さん(左上↑)が小種紅茶について熱く語ってくれました。桐木でお茶作りを続けて24代目の「茶業世家」。


  お茶がオランダ人によってヨーロッパに伝わったのは1610年(中国の明)。その後1640年頃から、オランダは近隣諸国のドイツ、フランス、イギリス等へもお茶を売るようになったようです。
 1610年やそれ以前の誕生説に説得力がないという議論もあります。また、1610年に輸出されたのは紅茶ではなく、緑茶という説もあります。地元の武夷では、1610年に輸出されたのは「正山小種」だと唱えています。

 1662年、イギリス国王チャールズ2世のもとへポルトガルの王女キャサリン・オブ・ブラガンザが嫁いで来ました。キャサリンは当時まだ非常に高価だったお茶をイギリス宮廷に持ち込みました。ポルトガルですでに喫茶の習慣に親しんでいたキャサリンは、イギリス宮廷にその習慣を広めました。茶に砂糖を加えて飲むという贅沢な飲み方が貴婦人たちを中心に大流行していきました......

 イギリスでは大量のお茶を消費し、そのためイギリスは中国から大量にお茶を輸入しなければらりません。その時イギリスは茶の代金として「銀」で支払っていました。多額の銀を払いすぎて、財政が危うくなる事を心配し、イギリス政府がとった手段は自国植民地であるインド産で大量のアヘンを栽培させ、そのアヘンでお茶と交換を考えました。そのため中国国内でアヘンが流通し、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃し、深刻な社会問題となってしまいました。そこで清政府はアヘンの輸入と使用を禁止して、密輸業者へ厳しい処罰を与えました。それを理由にイギリスは清に攻入り、屈服させました。その時香港をイギリスへ譲渡させ、さらにアヘンの流入を拡大させました。

 時は1700年代の中ごろ新大陸のアメリカでも紅茶の大量消費時代に入っていました。このアメリカの紅茶は正規ルートではイギリスからの輸入をしていました。ところがこのイギリスからの紅茶は値段が高かったのでした。というのもイギリスからアメリカに輸出していた紅茶には高い税金がかかっていたからです。そこで出てきたのは、イギリスからの正規ルートとしてではなく、密輸という形をとりオランダなどからの輸入をアメリカの輸入業者は行っていたのでした。その後、アメリカに対する輸出量が減少し逆にオランダなどからの密輸の紅茶が盛んになり始めたのでした。その結果イギリスの東インド会社の所有する紅茶の在庫が過剰気味になってしまい、このままでは損をしてしまうという事態にまでなったのでした。そこで、イギリス議会は今までアメリカに対して紅茶を輸出するときは高額の税金をかけていたのを無税にする法案が可決されてしまったのでした。それに反発したのがアメリカの密輸業者でした。

 この政策により「ボストンティーパーティー事件」が起きたのでした。このティーパーティー事件の中心的存在がアメリカの紅茶密輸入業者です。安い紅茶がアメリカに大量に入ってしまうと今後自分たちが密輸で儲けることが難しくなるからです。そのため彼らを中心に反対運動や抗議集会を行い、婦人運動などを巻き込んだ形で運動が大きくなっていったのでした。

 1773年12月16日の夜、インディアン風の簡易な扮装をした3グループ、50人(30〜60人という説もある)ほどの住人がボストン港に停泊していた東インド会社の船を襲撃し、「ボストン港をティー・ポットにする」と叫びながら、342箱の茶箱を海に投げ捨てました。イギリスの植民地であったアメリカ人は紅茶に限らずいろいろな事でイギリスに不満をもっていました。そのはけ口として紅茶の件が利用されたのでしょう。翌年4月、この事件がきっかけとなり、イギリス軍と植民地民兵が衝突し、ついに独立戦争が勃発したのでした。

 *植民地の人々の間に、それまで愛飲していた紅茶をボイコットし、代わりにコーヒーを飲む習慣を植え付けることになりました。これが、現在でもイギリス人には紅茶党が多く、アメリカ人にはコーヒー党が多いという結果をもたらしているようです。


   
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